若狭三方縄文博物館
インタビュー

公開日:2022/10/21 | 更新日:2022/11/15
福井県
町営博物館
歴史資料館

「敷居の高い施設」ではなくて
「幸せいっぱいなところ」

楽しいイベントいっぱいのお堅くない「歴史博物館」。周囲の施設との連携などについて伺いました。

  • Date:2022.10.10 15:00~
    Interviewee:永江 寿夫様(若狭三方縄文博物館長<歴史文化課事務室、学芸員>)、小島 秀彰様(課長補佐<学芸員>)
    Interviewer:木原 智美(フィールドアーカイヴ 代表)

質問1「この施設を造ろうと思われたきっかけを教えてください」

木原
こちらは「若狭三方」と名前がついていますが、若狭三方という町の運営になるのでしょうか?

永江館長
いえ。若狭町の町営になります。

かつてこの辺りは三方町と呼ばれたことから、「三方町縄文博物館」として開館しましたが、若狭町となった合併後の現在は「若狭三方縄文博物館」という名称となっています。

その昔、旧建設省と文化庁が”開発”と”保存”の役割を果たしていましたが、インフラの整備、道やダムが進むなかで、旧建設省が文化庁とともに、平成8(1996)年頃から”文化”に目を向けるようになったんです。

その時に「文化財を活かしたモデル地域づくり事業」ということで、その時は旧三方町のほうは入ってなかったんですけれども、小浜市と旧上中町が市町の領域を超えて一体的に一つの文化顕彰、文化事業をやっていこうというようなことに取り組みました。

その後、平成12(2000)年4月に、当館が開館しました。
初代館長が日本の哲学者で縄文文化に造詣の深い、有名な梅原猛先生でした。

さらに平成17(2005)年に郡域を超えた合併で旧三方町から若狭町になるわけですけれども、その後、平成23(2011)年に歴史文化基本構想ということで小浜市と若狭町が「 御食国 みけつくに 」をテーマに構想の策定をやりはじめたんです。

「御食国」の「みけ」っていうのは神さまや天皇さまへの食のことをいうんです。「つ」っていうのは古代の助詞で「まつげ」の「つ」と一緒で「の」の意味があります。「みけつくに」つまり「みけのくに」だから古代の古墳時代から中央に食を送る国としてこの若狭は位置づけられたんですね。

その「御食国」を表に出して計画を作ったんですけれども、それをしちゃうと縄文だけが救われなくなったんですね。
大和との関係というか、大和朝廷以前の縄文の話ですから。

木原
たしかに、そうですね。

永江館長
縄文をどう救いあげるのか、というなかで、縄文文化っていうのは日本文化の基層をしめるものなんだと。
それは四季折々の、海の幸、山の幸としての美味しいものをいただいたり、自然と一体となって生きていくことと、月を愛でるとかいったこととかもあったと思うんですけど、そういう日本の文化の基礎はもう縄文時代からあった、縄文で培われたものなんだということで、”「御食国」の源流は「縄文」だ”という風にですね、この館の冊子にも書きましたけれども、「御食国若狭の源流からの年縞的生成発展」として独自の計画を作りました。

「縄文」も生きる、「御食国」も生きる、というような表現をしたということですね。

木原
なるほど。そういった流れが途中で加わったのですね。
ところでこの建物はどなたの設計なのでしょうか。

永江館長
建物はコンペにより横内敏人先生が設計をしてくださったものでして、中の大きな円柱は縄文杉をイメージしているものです。

木原
不思議な柱だと思っていましたが縄文杉をイメージしていたんですね。

永江館長
この館は、旧三方町が12億くらいかけているんですけど、ちっちゃな町がよくこんな大きな施設を建てたなと思うくらいの施設ですよ。

だから、ここ、県立ですか?っていう風にも聞かれる人もいるくらい。

木原
でも、梅原先生をはじめ、いろんな有志の方々からの寄付などが入っているんですよね?
とても個性的な館なので、自分達の作りたいように作ったのかと思っていました。

永江館長
それは町がちゃんと正当な対価をお支払いしていますね。知恵は出していただくけれども、お金までは出していただいてないと思います。応援はいろんなところでしていただいたと思いますが。

木原
地域の文化財として、古くから縄文の遺跡が見つかっていて、それでこの博物館が建ったのでしょうか?

永江館長
この施設建設のきっかけは、「縄文のタイムカプセル」といわれた鳥浜貝塚遺跡の発見です。
1962年、河川の改修工事をした時にはじめて、大変なものがあるな、ということがわかりました。保存状態が極めて良く、大型の丸木舟、縄や編み物の断片、赤い漆塗りの櫛などの漆製品、エゴマ、ひょうたん、シカ、フナなどの動植物遺体と糞石などの発見がありました。

「縄文の遺跡は土器・石器だけ」というそれまでの観念は、この遺跡で覆されたのです。「木や漆を使って植物の栽培・管理をしていた縄文時代」という、新しい縄文文化解明の先駆けとなった遺跡で、三内丸山遺跡などの大型縄文遺跡発見は、鳥浜貝塚より後のことになります。

木原
この遺跡の発見から、梅原先生やいろんな方がここに来るようになったというわけですね。

永江館長
そうですね。学際的な調査が入るようになりました。この館が建つ前に「三方町立郷土資料館」というところがあり、芸術家の岡本太郎さんもよく来られていました。

木原
ここはもともとその資料館があった場所ですか?

永江館長
違います。資料館はもっと旧三方町役場に近いところでした。
ここはロケーションが良いということで、選地されたと思います。
もとは田んぼでした。
この付近一帯、三方五湖は昭和12(1937)年に国の名勝の文化財として指定された場所なので、周囲に名勝として不適切な建物は建てちゃいけない、景観的に周囲に配慮した場所にしなきゃいけないっていう、そういう制約があるというか、そういう形で守られてきたところですね。

質問2「常設展示に際し、他の施設にはないユニークな品や見せ方などは何ですか」

木原
まず、建物の外観からしてとてもユニークだと思いました。

永江館長
外観はマウンドになっていたと思うんですけれども、縄文を象徴する土偶のおなかをイメージした形をしています。ただ土偶はね、ここでは出ていなくて、近くではもう少し北の鯖江市からしか出ていないんですけれども。

木原
なんででしょうね?偶像崇拝をしていなかったとかかしら。

永江館長
縄文の中でも文化圏が違ったんだとは思いますけれどね。

木原
常設展示では、縄文に詳しくない方々向けの見せ方などは何かされていますか?

永江館長
子供が楽しめるような縄文クイズラリーがあったり、展示のことが詳しくわかる音声の出るジオラマなどがあります。あとは、ナイトミュージアムなどのイベントを館内で開催していますし、土笛作り、まが玉作り、火おこし体験などの縄文体験講座もあります。館外ではマルシェも行っています。

木原
館内の縄文杉周辺でヨガを開催されたこともあると伺いましたし、とても発想が柔軟で、楽しい館の使い方、見せ方をされているなと感じました。
何より、急にあらわれるリアルな人物にびっくりしました(笑)。

永江館長
(笑)あれは森川昌和さんという、最初に鳥浜貝塚の発掘調査に関わられた先生にたぶん似せているんだと思います。

木原
あとは、地層をそのまま見せるところとか。
年縞博物館が建てられる前にこの地層ゾーンはあったんですか。

永江館長
はい。あれは「剥ぎ取り」っていう強力な樹脂を壁に吹き付けて剥ぎ取る技法で、そのまま展示しています。

木原
そのほかに、他の施設にはない規模の展示品はありますか?

永江館長
丸木舟は圧倒的に多いですね。
鳥浜貝塚から2艘、ユリ遺跡から9艘、合計11艘の展示をしています(鳥浜貝塚分はパネル)。全国で120艘出土していて、その約10分の1がここで発見されています。

木原
それぞれ出土した、その場所はいまどうなっているのでしょうか。

永江館長
いまは、もう埋めました。ガラスばりにして見せたりすると、すぐカビが生えてしまうので、その上に何か建つとかいうわけでもなく、梅畑になっています。

木原
それは素晴らしいですね。いつかまたあらためて縄文文化のことが研究され直す可能性もあるということですね。

永江館長
これだけ1万年以上もですね、日本の縄文が継続されたのは本当に奇跡的なことで、いさかいもなかったということも言われていて、縄文文化ではなく、縄文文明といってもいいんじゃないかと言われる方もおられますね。

木原
文字はなかったんですよね。言葉はどうだったんでしょう。

永江館長
文字はなかったです。言葉は、ジオラマで子供がしゃべっていますが、当時はあんな風にはしゃべってはいませんよね(笑)
でも、文字がなかったから、嘘をつく人がいなかったんじゃないかな。

木原
そうか、書ける人と書けない人の差別みたいなのもあるかもしれないですしね。
なくしますか、文字(笑)

質問3「開館当初の見せ方から変化した部分はありますか、もしあればなぜ変化させましたか」

木原
この見せ方は、監修された当時のままで残っているんですか?

永江館長
ほとんど変わっていません。リニューアルは平成25(2013)年にしてるんですけれども、水月湖年縞の資料や丸木舟の実験考古学の資料を少し付加させたぐらいですかね。

木原
なんだか全体的に統一感があると感じていましたが、そういうことでしたか。

永江館長
縄文博物館は他にもありますが、ここは非常に先駆け的な形でできて、梅原先生をトップとして縄文研究の一流の人達がここに関わられ、色々応援や指導をしてくださったのです。

木原
想いのある人達が丁寧に作った感じがします。
後から余計な変更をする必要がないというか。
さきほどお話しされていた音声ジオラマとか、子供のための設備みたいなものは当初からあったということですか?

永江館長
いや、あれは後からつけました。
この館にはサポーターさんがいて子供達に説明をしてくださることがあるので、子供たちにとってワクワクするようなゲーム感覚で学べるような工夫の一つです。

子供向けの体験としては、他にも火おこしの体験、土器作り、季節限定ですけれども樹脂製の丸木舟に乗ってはす川や三方湖に漕ぎ出してもらうとか、江戸時代に浦見川運河を造った時の石工の体験などもやっています。

質問4「続けていくにあたって苦労されていること、お困りごとがもしあれば教えてください」

永江館長
そんなに苦労しているわけじゃないなぁ。

木原
集客だったり、維持費、演出、企画、清掃、他の館との連携とか…

永江館長
他の館とは連携していまして、いま(令和4年)
【国立若狭湾青少年自然の家】【福井県立若狭歴史博物館】【福井県海浜自然センター】【若狭三方縄文博物館】【福井県里山里海湖研究所】【福井県年縞博物館】【福井県園芸体験施設「園芸LABOの丘」】【福井県立三方青年の家】の8施設になっています。

お互いに情報交換をしながら、地域を盛り上げていこうみたいな、そういう連携、共同みたいなことはやらせていただいてますね。

木原
みんなで力をあわせて頑張ろう!で色々うまく回せている、という感じでしょうか?

永江館長
そうですね。ほんとにね、あの、ちっちゃい町で、どこの自治体もそうだと思うんですけどね、で、ましてやコロナになっちゃったんで、お金の循環、人の循環ってのがない中で、とにかく連携しながらまわってもらおうみたいな工夫は色々しています。マルシェをやったりね。

他にも年縞博物館とコラボして野外でイベントをやったり、桂由美のミュージアム(YUMI KATSURA MUSEUM WAKASA)との連携でこの博物館で結婚式を挙げたりとかね、知的学習だけではなく、夢のある、楽しみもある、そういういろんな企画を、みんなでアイディアを持ち寄ってやっています。

そういった感じで、敷居の高い施設ではなくて、幸せいっぱい、みたいな。仲よく連携させてもらっています。

質問5「その他、ご来場の方々に何かお伝えしたいことはありますか」

木原
「幸せいっぱい」いいですね!
では来場した方へのメッセージは「幸せいっぱいの町に是非、1館だけではなく、まんべんなくまわってくださいね」ですね

永江館長
そうですね。
で、美味しいものも食べて。海の幸、最高ですよと(笑)。

三方五湖一帯は、縄文人が暮らしていた”縄文環境”がいまでも残っています。
縄文人は石や木、火や水など自然の特性をとてもよく知っていて、うまく生活に活かして暮らしていました。
自然との共生、季節がめぐりますから共生と循環、っていうことを我々は縄文人のメッセージとして受けとめることができます。

縄文時代から学ぶことって本当にたくさんあります。
まあ今と単純な比較はできないでしょうけれども、過去の暮らしの中で学ぶこと、農耕文化、あるいは金属器が入ってくる以前の1万年以上の長きにわたる、争いがないっていう風にも言われている時代において、どういう精神性をもっていたのかっていうことを、我々自身が感じ取る努力をしなきゃいけないだろうなっていう風に考えています。

ぜひ来館していただいて、見学して、出土品を見るだけではなくて縄文人の精神性を感じて帰っていただきたいですね。

木原
お忙しいところ、インタビューに応じてくださいまして、ありがとうございました。

見学した際の感想

木原
周辺の施設との仲の良さが印象的で、地域一帯で一緒に盛り上げていっている成功例だなと感じました。

特にお隣の年縞博物館とは、最初はどうなるかと心配もしたそうですが、それは杞憂に終わり、相乗効果で仲良く、コラボイベントもしょっちゅうおこなっているそうで、土器に年縞による較正年代の記載があったり、ホワイトボードに年縞博物館 研究マネージャーの中川毅先生の書き込みがあったりと、常設展示でも随所に仲の良さが感じられました。

ともするとおかたい公的文化施設になりがちな歴史博物館でありながら、ヨガとか結婚式とか、かなり何でもありな、柔軟性に富んでいる博物館。
後からきた「御食国」もなんなく溶け込めるおおらかさ。

その一方で実際の展示の見せ方を変更するなどはせず、静かに開館当時そのままの良さを保ち続けてブラッシングしているのは、実はすごいことだと思うのです。

さすが縄文と年縞を育んだ土地。

永江館長は、お父様(永江秀雄氏)も若狭の研究者であり、御自身も若狭出身の方々のことや風土に非常に詳しく、どのお話もとても面白かったです。

土器の発掘や復元のお話はもちろんのこと、さらに日本語学や現代音楽など、私が聞きかじった知識に対してまでどこまでも話が広がり、いつまででもお話していたくなる方でした。

インタビューには登場していませんが、縄文博物館学芸員の小島さんも、非常に知識が豊富で面白い方で、永江館長とのインタビューの後、万葉集や前日のイベントのお話など閉館ギリギリ(ちょっと過ぎ?)まで話し込んでしまいました。