福井県年縞博物館
インタビュー

公開日:2022/10/21 | 更新日:2022/12/14
福井県
県営博物館
歴史資料館

年縞の魅力にこだわった、
“ライブサイエンス”の聖なる社

条件的にも立地的にも難しいからこそ余計なことをしない、一点集中型の解答例ともいえる博物館。
本物を見せる、妥協しない、にこだわった先にある、サイエンスを志すすべての人達に向けての優しくて熱い想いを伺いました。

  • Date:2022.10.11 14:00~
    Interviewee:山根 一眞様(福井県年縞博物館 特別館長)、中川 毅様(立命館大学教授)、吉田 昌弘様(福井県年縞博物館 館長)
    Interviewer:木原 智美(フィールドアーカイヴ 代表)

質問1「この施設を造ろうと思われたきっかけを教えてください」

木原
この施設はどういったきっかけで建つことが決まったのでしょうか?

中川教授
水月湖で学術的な成果が出たのがきっかけです。

水月湖の新しい年縞データを報告した論文がアメリカの科学誌「サイエンス」に掲載されたのが2012年で、そのデータを中心に作成されたものが年代の「世界の標準ものさし( IntCal イントカル )」として運用開始されたのが2013年なんですね。

そのときに私は日本に一時帰国をして記者会見をやったんです。

山根特別館長
記者会見は2013年9月30日でしたね。
私はいつもは記者会見をする側だったのですが、この時は初めてセッティングする側だったのでよく覚えています。

木原
山根さんは本当に色々なことをされていますね。
私にとってはデジタル機器や整理術にお詳しく、『メタルカラーの時代』や ”はやぶさ”の印象が強いのですが、”年縞”とはどのようなきっかけで関わりを持たれたのでしょうか?

山根特別館長
2013年7月に一時帰国された中川教授に初めてお会いし、年縞のお話を伺ったのがきっかけで、その後、2013年8月から日経ビジネスオンラインで年縞の記事を6回連載で書かせていただきました。
この時の記事は後に「読書への招待・歴史の物差し-水月湖の年縞」として、2016年から2020年まで中学二年生の教科書に掲載されたんですよ。
当時イギリスにいた中川教授とは連日、メールのやりとりをしていましたね。

木原
すると、記者会見の前から、お二人の間や周囲から博物館を造ろうという話が出ていたのでしょうか?

中川教授
いや、記者会見の後からですね。
当時の福井県知事に、記者の皆さんを相手に僕が30分以上しゃべった話を、隣でフルパッケージ聞いてもらうチャンスがあったんです。

その時に知事の心に何かが届いて、これは博物館にして、県民あるいは県外の人にも見てもらいたいとお考えになったようで、当時は”展示施設”としか呼んでいませんでしたけど「作りたいと思うけどどう思う?」と突然連絡がありました。

二つ返事ではなかったんですけど、学術的に筋のしっかりしたもので、本物を展示する ― 西部試錐工業の北村さんに年縞を採取してもらい、ドイツのM・ケーラーさんに年縞の標本を作ってもらう ― という形でやれるんだったら、私はそれをやる価値があると思うけどどう思いますかって言ったら、じゃあその方針でやろうということになりました。

それがこの施設を造る直接のきっかけですね。

木原
なるほど。
本物の年縞標本がど真ん中に展示されていたのは、そういう経緯があったからなんですね!
その方針をもとにすんなり思い通りの施設が建ったのですか?

中川教授
最初に方針がきまった後、少し膨らませて ”年縞研究の国際的に重要な拠点を作りたい”となりました。そこまではよかったのですが、具体的に建てる段階になってくると色々ありましたね。

よく、同じ福井県にある恐竜博物館と比べられるんですよ。

恐竜博物館もすごくいい博物館なんですが、魅力がわかりやすいんです。
子供が行きたがる。「ママ~、恐竜博物館に連れてって~」って叫んでくれる。

でも年縞博物館はそういうことが期待できない。
「ママ~、泥がみたい~」っていう子供はそうはいないですよね(笑)

つまり、年縞に関する博物館を建てるからには、観光拠点とは別のファンクション、価値が絶対ないといけないわけです。

色々な話し合いの中から「年縞博物館の価値は”ライブサイエンス”だ」と当時の知事がおっしゃってくださって。ただ ”年縞研究” っていうのはかなり特殊なノウハウを必要としていて、それは福井県のコンテンツにはないものなので、当時の知事と立命館大学の学長が締結式をして正式に協定を結びました。

そこから<福井県が研究環境を整備する、立命館大学の古気候学研究センターが研究のノウハウと人員を提供する>という非常にいい同盟関係が生まれました。

当時の様子はこちら→「立命館大学と年縞を基にした研究等に関する基本協定を締結しました」(福井県公式ホームページ)

木原
中川教授は立命館大学の古気候学研究センターのトップということですね。

中川教授
はい。この研究センターでは、水月湖の年縞堆積物を用いた気候復元と、地質年代の「世界標準ものさし」であるIntCalの更なる高精度化を目指した研究をおこなっているのですが、国際的にも存在感のある年縞研究の拠点を作るにはやっぱり箱ものだけあってもダメなので、”ライブサイエンス”な施設にふさわしい、手になじむ武器が欲しいと伝えました。

その武器とはなんぞやっていうと、細胞を瞬時に見分けて拾い上げる装置があるんです。
かなり高価な装置なのですが、その装置を年縞博物館併設の「立命館大学古気候学研究センター 福井研究所」に導入してもらい、いまここで実際に非常にアクティブな年縞研究に活用させていただいています。

木原
この施設をつくるにあたっての候補地は、最初からこの場所、三方湖の付近に決まっていたのですか?

中川教授
いや実は、場所の案はいくつかありました。
もちろん年縞が採取された水月湖のほとりという案もあったのですが、三方湖のほとりのこの場所に決まりました。

メリットとしては、当時、高速道路が開通しつつあったんですよね。
その高速にサービスエリア(三方五湖PA)ができることが決まっていたんです。
なので、年縞をわざわざ見に来る人なんてきっと多くはないから、何かのついでに来る人の動線を引っ張れないかと。

中央自動車道のサービスエリア(釈迦堂PA)から歩いていける「釈迦堂遺跡博物館」という博物館が山梨県にあるんですよ。そんな感じの立ち位置だったらやっていけるかなとは、確かに思いました。

それからこの場所は、隣に「若狭三方縄文博物館」があり、昔から貝塚の研究で、学術とともに村おこしをやってきた地方の地域なので、「縄文博物館」があって隣に「年縞博物館」があって、どっちもワンパッケージで遊びに行ける。
だとしたら地域全体として、一応観光地として魅力を保てるかもしれない。

水月湖の周辺はあまり平地がないというのもあったんですけど、その辺の理由をいろいろ鑑みて、最終的にこの場所に決まりました。

木原
確かにこの場所は湖の近くで景色も良く、学術的な施設が揃っていて、広々として穏やかな良い場所だなと感じました。

中川教授
ありがたいことに口コミが功を奏していまして、googleのユーザーレビューで星4.5なんです。
日本全国の博物館で星が4.5超えてるところって、実は数えるほどしかない。

星4.6以上は「広島平和記念資料館」の1館だけあるんですけれども、この館を別にすると星4.5が「東京国立博物館」「国立科学博物館」「知覧特攻平和会館」「長崎原爆資料館」「京都鉄道博物館」「トヨタ産業技術記念館」「竹中大工道具館」、それと「年縞博物館」なんです。(2022年11月現在)

木原
そういえば「第2回日本博物館協会賞」を受賞されてもいますね。
自館の価値や立ち位置を見極めた結果として、口コミでの高評価や受賞につながっていったのですね。

山根特別館長
日本の博物館、美術館は5,700館以上ありますが、ずーっとこの数年、来た方の評価が、だいたい上から5本の指に必ず入る。本当に小さい博物館が、しかもこういう全く足の便がないところで、全国5本の指にずーっと入っているっていうのは本当にありがたいことです。
真面目にやっている” 真面目にサイエンス ”な施設なんです。

木原
本当に、真面目にサイエンスな施設だと感じるとともに、また来ようと思うし、人に薦めたくもなる、不思議な博物館です。

質問2「常設展示に際し、他の施設にはないユニークな品や見せ方などは何ですか」

木原
確実にユニークな常設展示ですよね。
”とにかく年縞を一番きれいに見せるために考えられた施設” っていう感じに見受けられました。

中川教授
ほかの道がなかったんですよ(笑)

自然史博物館だったら、石が嫌いな人でも鳥は好きでしょとか、鳥が嫌いだったとしても花は好きでしょとか、二の矢三の矢があるじゃないですか。
どこかで楽しめるでしょ。

ここ泥の博物館ですからね。正気の沙汰とは思えないですよね。
泥で滑ったらもう滑りっぱなしで、あと受け止めるものないですから(笑)

だから「泥に魅力があるはずだ」っていう、自分ですら信じているのかいないのかよくわからない前提にすがりつくしかないわけですよ。
年縞博物館は、年縞の魅力、直球でそれを目いっぱい引き出すしかやれることがない。
やれることがないんだったら、もうそこにとことんエネルギーを突っ込むしかないって感じですよね。

僕たちは上野の国立博物館の縮小版ではなくて、目黒寄生虫館。あれを目指すべきなんじゃないかなと思いました。
それだったら、誰かの心には多分深くささって、中にはマニアックな人がデートコースで使ったりとかという展開も少しは見えてくるかなと。

木原
目黒寄生虫館ですか!
何度か行ったことありますけれど、たしかにマニアック。
その方向を攻めようとは、ずいぶん振り切りましたね。

中川教授
はい。
なんにせよ振り切るしかないかなというのは考えていました。

見せ方としては、”これが年縞ですよって素晴らしい見本を一個だけ置く” って考え方もあったんですよ。でもやっぱり”45m全部ないとダメだ” と。
それは研究の歴史からして、全部採取できるかどうかが、最終的に成功と失敗を分けたっていうところがあるから、そのスピリットを見せたかったというのと。

あとどう考えても1枚のガラスって、博物館を背負って立つほどの存在感があると思えなかったんですよ。
ただ、100個を並べたら、ちょっと違う存在感が出るんじゃないかなと思って。

木原
たしかにすごい存在感で、ちょっと荘厳な雰囲気も感じました。

中川教授
実は、僕が念頭に置いていたのって京都の三十三間堂なんです。
仏像1体1体も素晴らしいんだけど、それが千体並ぶと別次元ですごいんですよ。
あれと同じ手を使えないかなと。
金色に光る1メートルの板が100枚あったら、1枚分の100倍というよりは、もうちょっと上の何かができるんじゃないかなと思って。
結論としてうまくいきましたね。

それから、本物の存在感しか頼るものがなかったので、グラフとか文字とかいう伝達手段は、少なくともメインの展示空間にとっては副次的だと思ったんですよ。

存在をとにかく感じてもらう空間と、勉強をする空間。
こういう言い方が正しいのかはわからないけど、右脳を使う空間と左脳を使う空間を明確に分けることを強く主張したんです。
これは博物館であると同時に記念館としての性格がないと、観光地としては成り立たないだろうと。

観光地の巡礼客だと思ってみたときに、そこにごちゃごちゃ説明があって、ごちゃごちゃ数式があってというのは、多分望まれていない。

ただ「年縞キャーすごい!」で静止できる空間があったほうがいいだろうと思って(笑)

木原
まさにその思惑通り、キャーすごいと立ち止まりました(笑)

中川教授
標本の壁面と、写真と説明の壁面を分けて。”聖と俗のコントラスト”って僕ら呼んでいたんですけど、神社を作るメンタルだったから、こっちは御神体でこっちは参道というかガイドブックみたいな。

そのときに意識していたのが、実は伊勢神宮で。
橋1本を隔てて、内宮のあの静謐な空間とおかげ横丁が隣り合っているという、あの感じを出したかったんです。

木原
なるほど!その感じ、確かに出ていました。
本物の年縞だけが見られる”聖”な面と、解説がじっくり見られる”俗”な面。
すごい発想から、あの形になったんですね。

中川教授
施設をつくる際に、建築家(内藤廣建築設計事務所)の方も、展示会社(株式会社乃村工藝社)の人も、みんな面白がってくれたんです。
楽しかったですよ、みんなでどうやってこの苦境から抜け出そう、みたいな(笑)
ガラスや年表の貼り合わせ方とか照明の当て方とか、細部にまでこだわってくださった職人技もご来館の際にはぜひ見ていただきたいですね。

木原
見ました!ピッタリ仕上がっていて、細かなところまで綺麗だなと感じました。
そういうところが施設全体の綺麗さにつながっているんですね。
博物館としては少し変わったつくりになっていると思ったのですが…。

中川教授
普通の博物館は、まず建物がドーンと降ってきて、それが展示会社にドーンと渡されて、その壁面をじゃあどう使おうということになっていくらしいんですけど、当館の場合、スタートラインから三十三間堂方式だとずっと議論されていたので、ちょっと変わっていたんです。

とにかく長さ45メートルの壁面が欲しいと。
A面は御神体であってほしい。それが延々とあり、さらにB面も欲しいという条件で、建物を考えてくださっているんですよ。

だからテーマと建築と展示の一体感は相当なものです。

サイエンスとアーキテクチャと展示とを、ちゃんと顔を見ながら話し合って作っていった、この一体感というのは、かなり珍しかったようで、株式会社乃村工藝社の130年社史の、博物館のチャプターではただ1館、当館を選んでくださいました。

木原
年縞のためにいろんな方々が面白がってこだわって作り上げられていて、建物自体もユニークだということですね。
そのほかに何かユニークな見せ方はありますか?

中川教授
なにしろこの博物館は恐ろしい博物館で、たった一つ「年縞」だけをネタにした博物館なんですね。
うちのメインギャラリーって泥しか展示していないんですよ。

ただ、泥だけ見ても絶対そこまでは面白くないので、泥の持っている学術的価値とか、その学術的価値が生まれるに至ったその研究のストーリーがあってこその博物館だっていう認識が開館当初からずっとありまして、そのことは福井県もきちんと認識してくださいました。

なのでこの博物館には学芸員がいるだけではなくて、ナビゲーターっていう、来館者さんに積極的に話しかけて、話をする専任のスタッフがいるんですね。

木原
来館者さんにナビゲーターがつくっていうのは、当初から想定されていたんですか?

中川教授
そうです。
ただナビゲーターの知識もアップデートする必要があるんですよ。

ここは現在進行形の研究機関でもあるので、新しいネタっていうのが毎年毎年付け加わるし、あとナビゲーターの新人さんがいらっしゃるので、2、3人で私がナビゲーター研修っていうのをやるんですよ。

年縞博物館の入口に朝9時に集合して、あらゆる展示物を僕がひたすら説明して歩くっていう恐ろしい1日があるんです。出口に帰ってきた時は、だいたいは午後5時半くらいになっていて、全員くたびれ果ててます(笑)

木原
裏側でそういったご苦労があるんですね。

山根
どううまく伝えるかはどの博物館も同じ課題ですが、年縞博物館は文字が多くて内容も難しい部分もあるなか、そのわかりにくさをナビゲーターの皆さんが支えてくださっているのでとてもありがたいです。
博物館協会賞受賞も、ナビゲーターの存在が大きかったと思っています。

もっとも、来館者が少ない博物館だからこそ成り立っているシステムではあるので、コロナがおさまりインバウンドが増え、新幹線が敦賀まで開業し、来館者が今の2倍、3倍になったら、ナビゲーターも予約限定になってしまうと思われます。
そうなった時にもどうわかりやすい博物館にするかが、今後の課題だと思っています。

木原
確かに、ナビゲーターがいる博物館って珍しいですし、年縞のことをよく知らない人にとっては気軽に質問できる方が側にいてくださるのは嬉しいです。
さらにイベントや特別ツアーのようなこともされていますよね。

中川教授
それは僕がここで研究をやっているので、外国や日本中からよく研究仲間が来るんですよね。
彼らが来た時にゲストとしてしゃべってもらったり、あとはサイエンスカフェもやっています。コロナが始まる前はとにかく年縞を軌道に乗せなきゃっていうので僕も必死だったので、結構月一じゃきかないくらいの頻度でガイドツアーをやっていました。
今は休止していますが、コロナが落ち着いたら、ちょっと緩いペースでまたやりたいなと思っています。

木原
単に来館してもらえばいい、ではなく、ちゃんとした解説を聞いて回ってもらって、心に何かを持って帰ってもらうお客さんを増やすこと、入館者数の多さよりもよかったねって思って帰ってもらうこと、を大切にされている感じがします。

吉田館長
そうですね。
たまたま通りかかって期待せずに入られた方に、ああ来てよかったって思っていただけると嬉しいですね。

木原
がっついていないというか、余裕があって信じるものに向かってブレない感じがしていいですね。

中川教授
最初は違いましたよ。最初は必死ですよ(笑)

吉田館長
今は自信をもってそんなことを言いますけど(笑)

木原
自分たちのやろうとしたことは間違ってなかったんだなというのも、ここまできてわかったという、セーフっていう感じでしょうか(笑)

中川教授
まさにそれですね、セーフですね(笑)
やろうとした何かを目指してつかみ取りに行ったというよりは、置かれた状況の中で、生きて逃げおおせられる出口が存在するとしたらここしかありえないというところを攻めただけですから。

質問3「開館当初の見せ方から変化した部分はありますか、もしあればなぜ変化させましたか」

木原
2018年9月15日に開館してから、2022年10月で4年が経ちましたが、その間に何か変更したことはありますか?

中川教授
ありますね。
一番でかいのはロールカーテンを付けたことです。

この博物館って、ありえないくらいガラスの面積が大きいでしょ?

木原
たしかに、そういわれてみれば両壁はすべてガラスですね。

中川教授
普通、博物館って展示の壁面が欲しいからガラスの窓を作らないんですよ。
休憩する空間にだけ、外の景色を見て一息つくための小さな窓があるけど、ほかは基本、全部閉鎖空間な博物館が多い。

その点、ここは全面ガラスなんです。

これは二つ理由があって、一つは展示物がそもそもそんなにない。
泥しかない。
壁をいっぱい与えられても困るというのが第一(笑)

もう一つが、やっぱり関係者の中に、泥では見世物として弱いっていう頭が常にあったんですよ。
だから周辺の景色と溶け合わせることによって、トータルとしてアトラクションとしての魅力を維持しようという頭があって。

ここはですね、施設としては「年縞博物館」ともう一つ「福井県里山里海湖研究所」があるんです。このあたりの自然や風土と、地元の人の暮らし、知恵みたいなのを研究している研究センターがあって、この二つが合わさって「年縞」っていうところが、実は最初スタートラインとしてあって。

だったらこの辺の里山見えたほうがいいよねとか、だったら展示は最初は福井県嶺南地方の四季で行こうかとか、そういうプランがあったんです。

木原
なるほど。確かにこの辺の四季を見せることも素敵だという意見もわかります。

山根特別館長
たしかに年縞ギャラリーの全面ガラスは、そばを流れる何とも美しいはす川や三方湖が見えるんです。ただ、外光が入れば貴重な展示物が紫外線で劣化するおそれがあります。年縞展示ではその恐れは小さいとの意見もありましたが、20〜30年後のことはわかりませんよね。また、年縞部分はガラスで覆ってあるため外光で反射して見えにくいことがわかり、これはまずいな、と。

中川教授
建築デザインにとっては外の風土との一体感も重要なポイントだったんですが、結論としては、ほとんどの人はちゃんと"泥"を面白がってくれて、逆に標本が劣化する心配とか、明るすぎることからくる見え方の問題とか、そちらのほうが気になってきて。最終的には「確かにプライオリティは年縞にある、そっちが犠牲になったのでは意味がない」ということを納得してくださって、ロールカーテンを付けることができました。

そのロールカーテンも、とても後付けとは思えないレベルで建築と一体化していて、本気で設計してくださったことが分かります。

今は基本ほぼ全面閉めています。ただあくまで壁ではなくてカーテンなので、ガラスが持っている開放感もそこまで犠牲になっていないと感じます。

木原
開館後も、より良い形に変更されているということですね。

質問4「続けていくにあたって苦労されていること、お困りごとがもしあれば教えてください」

木原
続けていくにあたって、運営とか集客の方法など苦労されていることはありますか?

吉田館長
公立ですので、単純に収益をどうこうという話はないんです。
もちろんいろいろな目標があり、それを達成するんだという話はミッションとしてあるんですけど。
いまの一番の苦労としては、端的に言えば人がいないことです。スタッフが少ない。

中川教授
びっくりするくらいいないですよ。

木原
そうなんですか。

吉田館長
数人だけです。
運営するのに手一杯の人員で、なんとかやっています。

木原
数人で全国から殺到してもおかしくない人気の博物館をまわしている、という状況なんですね。

中川教授
さすがにもう少し欲しいですね。

それから学者視点で言うと、収蔵庫が欲しいです。
それからカフェが経営が苦しくて困っています。
床面積が小さいのと、そんなに集客はなかなか年がら年中とはならないのと、コロナとで。
カフェ、本当においしいんですよ。

木原
縞カフェですね!気になっていました。

山根特別館長
博物館のカフェって、楽しみの一つなんで、世界中どこでもすごく重要なものなんです。

当カフェには「年縞サンド」というのがありまして、パンが積み上げてあって、そこでそのストローを抜くと、ちゃんとボーリングして層になっているという。JR西日本の車内雑誌の表紙を飾ったりもしました。
( → 年縞サンドが表紙を飾っている「西Navi 北陸」2020年1月号はこちら

中川教授
これがね、見た目が良いだけじゃなくて、美味しいんですよ。
カフェのマスターが、ずっと敦賀でフードコーディネーターをされていた方で、年縞博物館にカフェも入りますという話が出た際に「こここそが私が自分でやるべき店だ」って、ものすごい情熱と愛情でやってくださって。

山根特別館長
変な業者が入ったら困ると思って会いに行ったら、すごく良い方だったんです(笑)

木原
マスターとはインタビュー前に少しだけお話できました。とても気さくで素敵な方でした。
年縞サンド、まだ食べられていないので、是非食べたいです。
集客が年がら年中とはならないとのことですが、季節によってだいぶ差がありますか?

吉田館長
冬はどうしても来館者が減ってしまいますね。

中川教授
夏と秋は多めだけど、冬にかけては雪が降りますので、県外からのお客さんは、やっぱりガクッと減ります。

木原
そういう問題があるんですね。
今日(10月)は本当に良い気候で気持ちがよかったですが、冬景色もとてもきれいだと思うので、ぜひその季節にまた伺いたいです。

質問5「その他、ご来場の方々に何かお伝えしたいことはありますか」

木原
最後の質問になるんですけども、ご来場の方々に何かお伝えしたいことは。

中川教授
あります!
立命館大学古気候学研究センターに、ぜひ資金の寄付を(笑)

木原
(笑) 寄付ができる場所は館内にあるんですか?

中川教授
それが、ダメではないようなんですが、いろいろあって、いまは寄付の告知ができていません。
だから、館内に水瓶を持った女神を置こうかと(笑)
そうしたら寄付って書かなくても、勘違いで…。

木原
なるほど(笑)年縞標本の先にちょんとおいてあったら…。

中川教授
そうそう、神社と言ったら賽銭箱でしょう(笑)

木原
では、ご来場の方々にお伝えしたいことは、賽銭箱があったらお金を入れてくださいということで(笑)

中川教授
いや。なんかもうちょっとかっこいいことをお伝えすべきですね。
まじめなことを言うと照れ臭いからつい、こういうことを言ってしまいますが…。

いまの世の中で、成果に対するサイクルがすごく短くなっていると思うんです。
今年予算をもらったら今年の成果をすぐに報告しなきゃいけない、みたいな。

激しい競争にさらされていて、一刻一秒が値千金みたいな分野のサイエンスはもちろんあるんだけど、時間をかけて作り込んでいかないといけないサイエンスもあるんですよ。

時流に乗って使い捨てられていく、年々の報告書を見るための論文じゃなくて、時流が切り替わってもちゃんと残って、ちゃんと次の世代の人の心に届き、何かを変えていく本当に優れたデータはごく一握りですがあって。

そういうものを残すサイエンスって、僕は本当に意味があると信じているんです。

木原
研究に尽くした努力は無駄ではない、意味があるんだぞってことですね。

中川教授
研究の価値を、あると断言してくれる大人がいて、そういう地道な研究のために使われた人生は無駄じゃないよということを、ちゃんと伝えてくれる大人が社会のどこかにいないと、子供がかわいそうじゃないですか。

この年縞博物館には、一握りの本当に優れたデータを残すサイエンスがあると思っているんです。
ここには、ある意味それしか、本物しかないんですよね。

年縞博物館に足を運んでくれた方々が、研究者の地道な努力にも視点を向けて、そういったものを含めて褒めてくれるというのは、この国にとっての希望だと僕は思ってます。

学者やっていると、いっぱいいるんですよ。
絶対食えないから、危ないから大きな会社に勤めなさいって周囲に言われて、大学院進学をあきらめてしまう人って。

それも一理あるし、学者で生き残るのは大変だから、それを横暴だというつもりもないですし、それはそれで正しいアドバイスなんだけど、逆のことを言う、僕たち幸せだよってことを言う学者がどこかにいてもまあいいかな。っていう立ち位置を、実は意識しています。

寄付も欲しいですけれどね(笑)

木原
とても重要なメッセージ、ありがとうございます(笑)
山根さんからも何かメッセージいただけますでしょうか?

山根特別館長
年縞博物館は年縞そのものを知っていただくだけではなく、いわば「水月湖年縞研究」のプロジェクトの凄さを知っていただく場でもあるんです。
ナビゲーターも、このプロジェクトに取り組んだ研究者や技術者のことを必ずご説明しています。

中学生や高校生が、水月湖年縞プロジェクトを通じて、科学とはこれほど価値のあるダイナミックな挑戦なんだと知り、科学者を目指そうという契機になればいいなと願っています。
理科系離れが語られて久しいですが、それは科学の魅力や挑戦心が伝わっていないからじゃないですかね。

木原
お忙しいなか、ユーモアも交えながら色々なお話をしてくださり、ありがとうございました!

見学した際の感想

木原
国内外の様々な博物館を見学され、取材も多数されているジャーナリストの山根一眞氏と、年稿のスペシャリストである中川毅氏。

お二方とも本職は博物館学とはまったく関係ないのですが、「博物館とはどうあるべきか」についてかなり深く考察されていて、こういった方々が関係した博物館だからこれだけ斬新な博物館になったのだなと妙に納得してしまいました。

緊張している私に対し、真剣に質問にお答えくださりながらも、すぐに面白い話を挟んでくださり、始終笑いの絶えないインタビューとなりました。

年縞を一番に考えて魅せることにこだわった博物館であると同時に、中川教授がかつて研究者として苦労が報われない経験もされていたからでしょうか、地道な研究や努力をしてきた方々を積極的に紹介し、研究成果を展示されている印象がありました。

各分野の専門家の皆さんの細部にまでこだわるスピリットが、年縞博物館の荘厳さの層を厚くしているのだなと感じました。